方位磁石を時計に近づけたら、針が動いた。
それを見た時計店から「磁気帯びしている。すべて交換しろ」と言われた――。
しかし、本当にそれだけで磁気帯びと判断してよいのでしょうか?
『磁気』とは何?
磁気帯びの“磁気”とは、いわゆる磁石の力と言った方が分かりやすいかもしれません。
磁石の力には、誰もが知っている基本的な性質があります。
① 鉄を吸い寄せる
② 磁石同士が引っ付く
③ 鉄は磁石に長く触れていると磁石化する
この3つの性質が、腕時計にとっては“天敵”になります。
腕時計には、クオーツ(電池式)とメカニカル(機械式)の2種類がありますが、どちらも磁気の影響を受けます。
クオーツ(電池式)の場合
秒針を動かしている「ローター」は小さな磁石です。これが1秒ごとに回転しています。
そこへ、スマホなどの強い磁気が近づくと、ローターが吸い寄せられて動けなくなり、
秒針が止まる
接触時間分だけ遅れる
という現象が起こります。
メカニカル(機械式)の場合
心臓部の“テンプ”を制御する「ひげゼンマイ」が磁気を帯びると、細いバネ同士がくっついたり絡まったりして、左右の振り角が乱れます。
その結果、
大きく遅れたり進んだりする
という症状が出ます。
ここまでは、「磁気が時計にどう影響するか」という基礎の話です。
しかし——
この“基礎知識”があるからこそ、次に起こった “ある時計店の誤診事件” の意味が分かります。
そして、この誤診事件こそが、この記事の本題になります。
ある時計店が「ほぼ全品磁気帯び」と判断した相談事例
ある日の午後、担当セールスが少し慌てた様子で相談室に入ってきました。
『すみません、ちょっと相談がありまして…』
「どうしました?」
『得意先の時計店から電話がありまして… 店内の時計がほとんど方位磁石に反応するので、“全部磁気帯びだ。商品をすべて交換しろ” と…』
かなり無茶な要求だ。
「全部交換? それはずいぶん極端ですね。まず、時計の状態を確認したいのですが…時計店様は、何を使って磁気帯びを判断されたんでしたっけ?」
『たしか…方位磁石で調べたと仰っていました。』
この時、私は今の状況がほぼ読めました。
「なるほど。まず結論から言うと—— 商品交換の必要は、ほぼありません。」
『本当ですか!?』
「はい。理由を説明しますね。」
時計店が陥った誤診のカラクリは、実は「方位磁石の仕組み」と「時計の構造」に対する、ちょっとした勘違いにあります。
「推測にはなりますが、方位磁石というのは地球の磁気(地磁気)に反応する非常に繊細な道具です。微弱な磁気でも動きます。つまり、方位磁石が少し動いたからといって、時計内部の機械に悪影響を与えるほどの磁気帯びだとは限らないのです。」
『でも、現に時計に近づけると針が動いたということは…』
「ここが一番の落とし穴です。理由は大きく2つあります。
1つ目は、外装(ステンレス)の特性です。ケースやブレスに使われるステンレスは非磁性素材ですが、プレスや切削などの加工過程でごく微弱な磁気を帯びることがあります。これは時計の精度には一切影響しないレベルですが、繊細な方位磁石はこれに反応してしまいます。
そして2つ目。実は方位磁石の針自体が『強力な磁石』なんです。帯磁していないただの鉄や金属であっても、磁石である方位磁石を近づければ、金属側が引き寄せられて方位磁石の針が動きます。つまり『時計が磁化している』のではなく『方位磁石が反応しただけ』というケースが非常に多いんです。」
『なるほど…! じゃあ時計店さんは完全に誤解している可能性が高いですね。』
「そうですね。“方位磁石が動いた = 帯磁している = 不具合品だ” という思い込みが原因でしょう。本来は順序が逆ですね。止まった、遅れる、進むといった具体的な不具合がまずあって、その原因を探る中で帯磁を疑うというのが正しい手順です。」
『そういえば…帯磁していると言われた割には「時計が遅れている・止まっている」という具体的な症状の指摘はありませんでした!』
「それなら大丈夫です。クオーツなら強い磁気に触れれば止まりや遅れが出ますし、メカニカルなら精度(日差)が大きく乱れます。それが一切出ていないのであれば、内部機械には何も問題はありません。」
『助かりました…! では時計店さんには何とお伝えすればいいでしょうか?』
「こう伝えてみてください。
『方位磁石の針自体が磁石であるため、金属製品に近づけると帯磁していなくても針が反応することがあります。方位磁石は地球の磁気(地磁気)に反応する非常に繊細な道具ですので、時計の帯磁判定には向きません。また、実際の遅れ・進み・止まりなどの症状が出ていないことから、時計本体の不具合ではございません』と。」
担当セールスは大きく息をつき、安堵した表情になりました。
『よく分かりました! すぐに説明してきます!』
誤診は「思い込み」と「確認手順のミス」から始まる
今回のケースの本質は、“方位磁石が動いた=磁気帯び=不具合” という誤解でした。
お客様相談室やカスタマーサポートの現場では、時計そのものの状態だけでなく、「相手がどうやってそれを判断したのか(確認手順)」まで遡って確認することが非常に重要です。
こうした「思い込み」によるトラブルや問い合わせは、実は少なくありません。
単に商品知識を持っているだけでなく、「正しい判定方法と確認手順」を知っておくことこそが、無用なトラブルを防ぎ、プロとしての適切な対応につながるのです。
おわりに
今回のお話は、私がお客様相談室で実際に経験した出来事をもとにしています。
時計は精密機械です。
しかし、お問い合わせの中には、「故障ではないのに故障と思われているケース」や、「少し知識があれば解決できるケース」が数多くありました。
実際の販売現場では、このような細かい質問への対応が信頼に直結します。

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